history
創業者 辻才次郎(つじ さいじろう)は、石川県珠洲郡蛸島村(現在の珠洲市蛸島町)にて誕生。
研究熱心で学術優秀。性格は生真面目かつ頑固でありながら、頭がよく切れ、行動力にも長けており、当時の地元ではちょっとした有名人。
学校卒業後は、50トンの持船・木造帆船日吉丸の船長として、南は九州、北は北海道と、広く交易で活躍していました。
木材に関心を持ったきっかけは、富山県伏木町で発生した大火事の際、急遽青森から杉製材を運ぶことに成功し、復興に一役買ったとき。
その後函館に拠点を移し、米屋や行商など様々な経験を積みながら、大正9年(1920年)に函館市新川町で辻木材店として独立。
今も続く「辻木材」の始まりです。
辻木材開店後、販路も徐々に拡大、事業が軌道に乗りはじめた頃、未曾有の大火災が函館を襲います。「関東大震災に次ぐ歴史的大火」と報じられた「函館大火」です。昭和9年3月21日に函館市で発生した火災は、市内の三分の一を焼きつくし、死者2,166人の大惨事となりました。焼失建物は11,105棟。建物の損害額は、現代に換算すると900億円以上にものぼります。
なんとか被害を免れた辻木材店は、長きにわたり、木材を通して復興活動に尽力しました。
復興作業も少しずつ落ち着き始めたころ、世界では第二次世界大戦が勃発。昭和16年、日本は太平洋戦争へと突入します。
戦時中、統制経済下にあった木材業界は、同年3月の「木材統制法」により、木材の規格・価格などに制限がかかります。これによる木材業界のダメージは大きく、辻木材も例外ではありません。
才次郎が、統制機関である「北海道地方木材(株)函館支店」の取締役支店長へ就任したと同時に、辻木材店の一時休業を決めました。
終戦後、「北海道地方木材(株)」が解散となったことで、辻木材店は営業を再開。
同じく他の企業でも営業再開や新規開店が増え、規制によって落ち込んでいた木材業界は、業界再編成に向かって急速に展開されていくこととなります。
昭和31年6月、才次郎が他界。息子 俊夫(としお)が襲名し、二代目 辻 才次郎として事業を継承しました。
昭和33年、二代目 才次郎が「函館商工会議所議員」に当選。昭和34年には、株式会社へ変更し、代表取締役に就任します。
昭和30年代後半の日本経済は、いわゆる「高度経済成長期」。函館の木材業界も経済成長の波に乗り、昭和35年には東京営業所を開設。続いて昭和40年に秋田連絡所、さらに翌年には仙台に東北出張所を開設し、企業も組織も大きく発展する時代を迎えました。
先代の魂を受け継いだ二代目 才次郎は、木材業界だけでなく、函館経済界のリーダーとしても高い手腕を発揮しています。
昭和35年に函館木材問屋協組を創設、理事長に就任。
昭和42年から6年間は、函館木材協会会長を務めあげ、並行して同年に函館商工会議所副会頭、51年に会頭職を務めました。
昭和63年には勲四等瑞宝章を受章しています。
平成7年、志はさらに受け継がれ三代目へ。
三代目 辻 秀明(ひであき)は、函館市若松町生まれ。将来辻木材を継ぐことを見据えつつも、「他人の飯を食う」必要性を感じ、東洋大学卒業後、当時一部上場企業の大手建材メーカーに営業として就職。
さらに小売業を学ぶため、従業員2名の都内の建材店に勤務。営業から配達、集金と、メーカーとは違う商売の厳しさを経験しました。
その後、辻木材東京営業所で4年間勤務。本社函館に戻ってからは、資材納入の仕事を担当しました。
ある日、資材販売の関係で上棟式に参列した際、お施主様の心から喜ぶ姿を見たことから、住宅事業を意識し始めます。
平成11年頃にはローコスト住宅建築の取り組みを開始。平成15年には、本格的に注文住宅事業に参入が始まりました。
ブランド名は「来夢(らいむ)ハウス」。マイホームは人生の夢。家族と仲良く暮らすための家。『夢が来る家をつくろう』との想いが込められています。
平成21年、家づくりに関する知識、考え方、方法をわかりやすくまとめた「夢はすぐそこ」を出版。
事業を通じて、カンボジアへ小学校寄贈や遺児育英資金・障害児支援への寄付など、社会貢献も積極的に取り組んでいます。
令和2年、辻木材株式会社は創業100年を迎えました。
初代からの想いは、四代目 辻 将大(まさお)へと受け継がれます。
私達の合い言葉は「お客様の心から喜ぶ顔が見たい」。
100年続く技術と実績を誇りながらも、辻木材は新たな挑戦と進化をし続けます。